紀元前二千年紀の終わり頃から一千年紀初頭にはメソポタミアのアッシリア帝国が隆盛となり、周辺の地域に進出して行きました。

アッシュールナジルパル二世(883-859BC)はニムルド(古代のカルフ)を新しい都と定め、うず高い砦址の基盤の上に宮殿を造り、その壁に王の事績を描き記述した浮彫を施しました。

この都の建設には多くの周辺地域からの捕囚も従事し、紀元前879年に盛大な完成式典が行われました。メソポタミアでは、人間は神に仕えるために創られたものであるとするシュメール以来の伝統が継承され、王権も天から降されたもの、王は神と人間との間をつなぐものとされましたが、これらの浮彫は言わば「神の子」として、最高聖職者、為政者、狩猟者を演じる王の所業を描いているのです。

このレリーフはこの王の建てたニムルドの北西宮殿の玉座の間前室(C室)に由来するものと伝えられ、王の狩猟の最後の場面であると言われています。狩猟の最後に王は獲物に灌奠を行い、神に捧げるのですが、狩猟自体神聖な儀式でありそれに与かる者はすべて浄められねばならなかったのです。

髭の無い右側の人物は王の従者であり、王の行う儀式を最も間近で補佐しています。その左側即ち従者のすぐ後ろには二重の牛角の冠をつけ髭を生やした有翼の精霊が毬果を右手に持ち、浄めの所作を行っています。この精霊は通常右手に毬果、左手にシトゥラを持った姿に描かれていますが、この仕草で王や従者の他に生命の樹に向かっている姿もあります。

この浮彫にあらわされた衣装の縁飾の縫い取り、矢入、装身具の意匠などは、大変浅く線彫りされていますが、他の浮彫にも共通して言えることは、しばしばそこに表された場面構成や個々の図像要素には何らかの誤解か恣意に基づくと思われる改変がなされていることがあり、また基調の浮彫の厳格な作行きに対し、おおらかな雰囲気が感じられます。

これはこの制作に携わった職人がその刻む部分によってかなり相違する意識を持っていた事を示し、アッシリアの捕囚となった職人の手になるものではないかと考えられています。事実いくつかのレリーフにはマルリクの金属器に代表される北イラン、カスピ海南岸地方の意匠から由来すると思われる要素を垣間見ることができます。
アプカル浮彫/アッシリア
古代オリエント地図 Map of Ancient Orient

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