二頭の有翼や無翼の獅子が組み合う意匠は、西アジアでは古くから行われ、様々に表現されて来ました。殆どの場合、双獅子の間にはしばしば、植物や建築の意匠が当てはめられていますが、この場合は牛がおかれています。

これはその様式から西イラン由来のものと考えられていますが、なぜこの場合は双獅子とねじ伏せられた牡牛とが組み合わされたのか、これは前述のスヴァスチカの表現にも関連する民族的伝統に根差すものがあると想像されます。

インド・イラン民族の一年は春分の日と秋分の日で区切られ、夏冬の二つの季節に分けられていました。太陽を象徴する獅子が月を象徴する牛を襲う図像はこの季節の変わり目、とりわけ冬から夏に移り変わる新年(春分)の儀式に関連しているといわれています。

最初に創造された唯一の生物である牛は月のように白く、これが殺害されることによってすべての有益な動植物が産み出されたという神話と象徴の世界がその背後にあり、かつまた夏を象徴する獅子座が冬を象徴する牡牛座に取って替わる天文上の象徴の存在も考えられます。

これは一年の周期性をもってこの宇宙創造神話を反復する儀式として繰り返されて来たものと思われます。

紀元前7世紀末から6世紀初頭にかけて、メソポタミアの最大の帝国アッシリアとその最大のライバル、ウラルトゥは、あいついで北西イランのメディアと南メソポタミアのバビロニアの同盟勢力のもとに降り、更にそのイラン系メディアは西アジア世界を初めて統一する大帝国となりました。

この銀の器は、あるいはこのイラン系の最初の帝国を代表する作品であったのかも知れません。


Mary Boyce/ A History of Zoroastrianism/ Leiden I- 1996-172ff. , II- 1982- 105 ff.

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双獅子形容器