鎌倉時代 13世紀
紙本墨書
縦:27.9cm 横:47.8cm
中臣祐定(1198〜1269)は春日社若宮神主家(千鳥家)第四代。南都歌壇のリーダー。勅撰歌人であり,『万葉集』研究では関東の僧仙覚にならぶ業績を残した。その宰領した春日社法楽歌会や柿本講などの懐紙の紙背を料紙として『万葉集』(二十巻)を寛元元年(1243)に書写した。このうち数巻が加賀前田侯において解綴された。古筆として懐紙が復活,紙背となった『万葉集』は擦消(白紙や経文〈奈良懐紙〉との判別は不可能),「春日懐紙」の称が起こった(裏万葉仮名のものが珍重される)。近代,この『万葉集』(断簡)が注目され,『春日本万葉集』として紹介された。先に祐定は嘉禎4年(1238)に『和謌色葉』を書写(残巻だが重要文化財),なお,建長2年(1250)には『古葉略類聚抄』(類別万葉集,十二巻)を編著(五冊現存,重要文化財)。同4年には『後撰和歌集』(鳥取県立図書館蔵の大中臣清輔本)を書写している。晩年,祐茂と改名したが,おりから撰進の『続後撰集』を書写した(後説)。祐定の写本はなお多数にのぼるはずである。祐定は署名は稀だし,花押を据えることも少ない。しかも,春日社家の氏人らに筆耕させるので祐定の業績(筆蹟も)は顕著とならず,上記の著作も筆者未詳とされる(『古葉略類聚抄』は彼の著作といえる)。祐定は早くに万葉研究に志し(定家に勧獎されたか),『万葉集』を書写,その参考書として歌書を盛んに書写したのである。ちなみに,春日社家の古典研究は盛んで,古典の蒐集が知られる。たとえば『皇年代記』の現存最古の写本,さては「尾張国郡司百姓等解文」までも蒐集している。祐定の万葉研究はむしろ埋没せしめられたといえる。この藤原為家との『続後撰集』の貸借に関する勘返状は祐定の顕彰に役立つ。為家は定家の嫡男,側室は『十六夜日記』を残した阿仏尼。『続後撰集』の撰進は建長3年(1251)である。
祐茂の書状に対し,為家はそれに合点し,返答を記して祐茂に返した。かような贈答(往来)書状を勘返状という。宛名の民部大夫は御子左家(二条家)の家司(執事)。貴人に宛てる披露状の礼式を用いている。
『続後撰集』を両三回に分けて借用している。文面に仮名序の撰進の有無を質ねている。とすると,『続後撰集』の撰進は建長3年(1251)だから,この勘返状はその直後だとわかる。すると,祐定が祐茂と改称したのは建長年間だといえる。 (永島)
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