南北朝時代 14世紀 文和3年(1354)
紙本墨書
縦:31.4cm 横:92.3cm

惠日は如大尼を開山とする尼五山第一(臨済宗)の景愛寺第五世の東峯惠日だとわかる。一つ書(箇条書)の消息体で,冒頭の箇条は追書(追伸)の書式(字下り)である。文和3年(正平9)5月,惠日尼は景愛寺住持職を華林恵厳尼に譲ったが,その際,念願の景愛寺仏殿の造営(寄進)の成就を第一,門徒らは恵厳尼の擁護,女性では不慣れだから景愛寺の重書(重要書類)は他に寄托した。なお,恵厳尼の終命あるいは引退の際は天龍寺雲居庵坊主(長老は無極志玄,塔主は春屋和尚)に相談せよ。また,門徒志願の輩があっても結局は惠日尼に不孝(不逞)する輩だから入寺させるなという四か条にわたる置文(遺言書・定書)である。門徒や外護者らに遺したものだが,有事の際の依頼先は決めていたらしい。

追記(あるいは序説)ともいえる冒頭の条文は,天龍寺内の紛議が上裁(御さばくり)によって解決したのが喜ばしい。天龍寺は同じく仏光派の大寺で夢窓国師のお寺である。そこで喜びを国師の弟子の同寺雲居庵主に伝え,景愛寺に対する厚誼を求めている。むしろ書き出しの文章でもあり,置文は天龍寺雲居庵主に後事を托したものとも言える。

江戸時代,この置文は如大尼の文(他に両三ある)に添って伝来したので,古筆家など惠日の考証に難儀をしている。尼門跡研究家の大塚実忠師のご示教により,私は景愛寺住持第六世東峯惠日尼と断定した。なお,天龍寺に対する上裁(御さばくり)などの解説は省略する。

足利尊氏・直義兄弟の抗争,南朝軍の京都進出で無極和尚が天龍寺住持に再任したり,景愛寺末寺の正脈院を拡充したりした高師泰・師直兄弟(一説に師直・師泰兄弟)が誅殺されるなど,政情混乱が天龍寺や景愛寺に波及していたのがわかる。新史料である。 (永島)

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