「日本書紀(にほんしょき)」に、垂仁天皇(すいにんてんのう)についてつぎのようなことが書かれています。
当時(とうじ)、昔(むかし)から行われていた生きながら死んだ人とともにその関係する人を埋(う)め立てる殉死(じゅんし)の風習(ふうしゅう)の悲惨(ひさん)なようすに、天皇はたいへん心をいためられていました。同天皇32年の7月に皇后(こうごう)の日葉酢姫命(ひわすひめのみこと)が亡くなられたとき、天皇は殉死に代わる何かいい方法はないものかと家臣(かしん)に聞かれました。その時、野見宿禰(のみのすくね)という者が「殉死の習慣(しゅうかん)はよくないし、後の世に伝えるべきではない」と、出雲(いずも)の国から土部(はじべ)を100人よんで、自ら指揮(しき)して、埴土(はにつち)をとって人や馬、いろんな物を作らせ、「これからはこの土物を生きた人の代わりに墓(はか)のまわりに埋めるきまりとするべきです」と申し上げました。天皇はたいそう喜び、早速(さっそく)そうせよと命令(めいれい)して作らせました。それ以後、土で作られた人や馬、物のはにわが墓に立てられて、人の命が失われることはなくなりました。
日本書紀にでてくるこの話がはにわの起こりとされているのですが、考古学(こうこがく)上の発掘例(はっくつれい)とは年代が違うことから、現在ではこれは事実ではないとされています。ただ、「埴輪(はにわ)」という名はこの記述(きじゅつ)からきています。
弥生(やよい)時代後期の墓には、底に穴の空いた素焼(すやき)の壺形(つぼがた)の土器(どき)が供(そな)え物として埋められた例がみられます。その土器の形などから筒形(つつがた)のはにわが生み出されたと考えられています。そして、古墳の発生(はっせい)とともにそういったはにわがその周囲にめぐらされることが定着(ていちゃく)していったことを考えると、死者(ししゃ)を葬(ほうむ)った場所を聖域(せいいき)として区切る意味に死者の魂(たましい)をまもるという呪術(じゅじゅつ)的な意味あいとが加わって発達(はったつ)したということができます
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