鳴滝時代は、自らの芸術性が遺憾なく発揮され、多くの名品を送りだした時期といえようが、乾山は正徳二年(1712)、開窯13年目にして京都の町中である二条丁子屋町に移っている。種々の理由が挙げられようが、経済的な面とともに当時すでに人気が高まりその需要に対応するためであったこともそのひとつに考えられよう。この時期は五条坂などの共同窯を使った借窯での生産であり、向付などの数物食器が多く焼かれた。乾山は基本的に工房生産という態勢をとっていた。成形、絵付、施釉、焼成など何人かの専門職人の手を経て出来上がるため、同組の作品であっても微妙に作行きが異なる。
この向付は輪花を象ったもので、素地に白化粧を施し、黄色で一条の輪を、その下に緑の帯を内面と外面にそれぞれ巡らし、見込み中央には「壽」の文字を銹絵で記している。削り込んだ高台内には銹絵で円形に縁取られた白化粧の上に同じく銹絵で乾山銘が記されている。口縁部は緑色絵具で皮鯨風の縁取られている。全体を引き締める効果を意図しているのであろうか、これもよく見られる乾山得意の手法のひとつである。見込みに「壽」文字の記された器は他にも大鉢の例があり、吉祥文の食器として注文に応えたものであったのかも知れない。
|