尾形乾山は,名を権平といい,寛文3年(1663)京都の富裕な呉服商「雁金屋」尾形宗謙の3男として生を享けた。次兄は天才的画家の尾形光琳である。本阿弥家とは親戚関係にあり,天性の芸術的資質が2人の内には流れていたといえる。光琳とは対照的に乾山は内省的,隠遁的な性格の持ち主であったとされている。

父の遺産を相続した乾山は念願の幽居を京都御室に構えた。そこは野々村仁清の窯とは目と鼻の先であり,仁清に陶法を学んだ乾山は,元禄12年(1699)京都の乾(北西)の方角にあたる鳴滝に窯を開いたのである。乾山は技術的にはまだまだ素人の域を出るには至らず,成形,施釉,焼成などは押小路焼の孫兵衛や仁清の長男・清右衛門の協力を得ながら,むしろ器形や図柄といった意匠の分野にその才能を発揮した。

この四方鉢は素地の上にまず白泥で,つぎに銹絵と呉須で草文を描き,透明釉を掛けて仕上げている。その手法は「銹絵染付梅波文蓋物」(MIHO MUSEUM蔵)と共通し,成形もその蓋と同様の手法で作られている。図柄の草文は薄というよりも春蘭に近いような描写であるが,動きがあり,生き生きと描かれている。底部は露胎となっており,大きく銹絵で乾山銘が記されている。内面に一部剥落箇所も見られるが全体に状態はよく,乾山初期の作風をよく示す優品である。

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乾山銹絵染付草文四方鉢