元禄一二年(一六九九)に京都の西北、鳴滝の地に窯を開いてから一三年後の正徳二年(一七一二)、乾山は洛中の二条丁子屋町に移り住む。いわゆる乾山の二条丁子屋町時代である。二代乾山となる猪八を後継者として養子に迎え、借窯という形で京焼の生産体制に参入、並行して猪八工房を運営し、次第にブランドとしての「乾山焼」の人気を博して名声を確立していった時期でもある。多くの需要に応じるため工房方式で量産、広く一般化したために器種も自然、食膳器が多くなっている。
呉服商を生家にもつ乾山は、自らの素養に感応し、目に触れるさまざまな美術工芸品の意匠や技法を陶芸に活かしている。一六世紀末〜一七世紀にかけて大量に流入してきた外国製陶磁器のひとつにオランダのデルフト陶があり、乾山もオランダ写しとして模倣している。この猪口は、白泥と呉須を使って碁盤の目状に交互に塗り分ける、いわゆる市松文の意匠で、見込は碁盤目を四五度傾けて変化を持たせている。底部には「乾山」銘と「爾」の花押が記されている。細部にまで神経を使って丁寧に仕上げられ、口縁際の黄色の縁取とデルフト・ブルーと呼ばれる青色が目に鮮やかな作品である。
関連美術品
乾山色絵阿蘭陀写市松文猪口