タジキスタンの名宝
ボリス・I. マルシャーク(中央アジア・コーカサス部長、エルミタージュ美術館)

● 西中央アジアにおけるシルクロード美術


 タジキスタンの首都ドゥシャンベにある国立博物館の名宝はよく知られた古代スキタイ(サカ)、バクトリア、ソグディアナ文化の最も重要な部分を鮮明に示している。というのも現在のタジキスタン共和国は西中央アジアの一部を包含しているからである。ゼラフシャン川谷地域のソグディアナ、その北東にあるウスルーシャナ、更にその東にあるフェルガーナ、アム・ダリア川とその支流域にあるバクトリア(後のトハリスタン)がそれである。これらの地域にはいくつかの様々な種族が定住していた。それはソグド人、バクトリア人、フェルガーナ人であるが、ウスルーシャナはソグディアナの文化に深く影響されていて、そこで発見された文書はソグド語で書かれていた。上記の定住民族は肥沃な谷間や、遊牧民の住む乾燥地域の中に点在するオアシスに住んでいた。ペルシャ語や現在タジキスタンの言語となっているタジク語が西イラン系言語に属するのに対し、バクトリア語やソグド語などの地方言語は、東イラン系言語に属している。8世紀末から11世紀にかけて次第に言語が変化して行ったが、これはアラブに征服された8世紀以降アラブ人やペルシャ人の少数の移民によって人口が変化しても影響を受けなかった。こうして現在のタジク人はソグド人、バクトリア人、フェルガーナ人の正真の末裔なのである。
 現在の東イラン、南トルクメニスタンそして南アフガニスタンという遠くの地域まで親密な関わりをもつ高度に発達した定住民族の文化が存在したことは、ゼラフシャン川谷地域のサマルカンドとペンジケントの中間にあるサラズム村に、前四千〜前三千年紀から商人や農民や職人の大規模な定住のあったことが証明している。それはすべてアブドゥロ・イサコフによって発掘された。かなり古い時代のことであり、離れた国との限定的な接触はこの地方文化の特徴となった。
 前一千年紀に中央アジアの遊牧民はスキタイ人と緊密に関連していた。青銅鋳造製の羊頭部(作品211)は彼らの所謂「動物様式」の主要な一例である。これは北タジキスタンでもう一つの類似した頭部とともに偶然見つかった。どちらも鋳造した大きなものの断片にすぎない。我々はその巨大な物の全体を想像するしかない。例えば他の動物の形に支えられた有名な玉座と似たようなものの一部であったという説もある。それらの頭部は典型的な東スキタイ(サカ)のものであるが、そのような玉座はすべてスキタイの時代よりももっと後のものである。私の考えではそのような頭は王の大鍋の脚を飾ったもので、大変類似した羊の頭が、カザフスタンで見つかったやや小さめの大鍋の三脚上部につけられている。1)このタジキスタンで見つかった大振りな作りの二つの頭部が付けられた大鍋は、この時期のものとして知られているものの何倍もの大きさであったに違いない。しかしもっと後(1400年頃)の中央アジアにはティムールの作った大きな青銅の水鉢いわゆる「ティムールの大鍋」があり、「歴史の父」と言われるヘロドトス(前5世紀)によれば、ヨーロッパ・スキタイの王は鏃を鋳潰して作った夥しい数の大鍋を持っていて、彼の兵士は各々青銅の鏃をそのために納めたことが知られている。通常、この記事は伝説であると見なされてきたが、タジキスタンのこの羊頭は、このヘロドトスが大変大きな鍋が存在した事実をつたえていると思わせるのである。羊の首の破損具合は、大きな爆発がおこり首が吹き飛ばされたことを劇的に物語っている。それはヘロドトスが描写している大鍋に比されるような、大きなものを作るための溶かされた金属から発生したガスの爆発によるものである。
 前4世紀、アレクサンダー大王率いるギリシャ系マケドニア軍は長い苦戦の末、バクトリアとソグディアナを征服し、そこに彼はいくつかのギリシャ都市を作った。その後バクトリアはギリシャ人の王によって前2世紀中頃まで支配されたが、ソグディアナでは彼らの権力はそれほど続かなかった。ボリス・リトヴィンスキーとイゴール・ピチキアンはバクトリアのアム・ダリア川の近くでオクサス神殿を発掘した。この発見は考古学的遺産の多いタジキスタンでも最も興味深いものの一つである。神殿は前300年頃あるいはもう少し後のもので、ギリシャとバクトリアの建築的特徴をもっている。その美しい彫刻はギリシャ様式に見えるが、スタッコで作られ、この素材は中央アジアでは典型的なものであるが、ギリシャにはない。神殿からは一連の彫刻の断片が見つかったが、それらはギリシャ王、地方あるいはペルシャの高官、そしてギリシャの神々が表現されていた。
 いくつかの遊牧民族によってグレコ・バクトリア王国は前2世紀半ばに征服された。これらの中にはトハール人(トハリスタン人)がいたが、彼らはインド・ヨーロッパ系であり、非イラン系起源であった。彼らの担った役割は大きく、バクトリアが9世紀頃その名をトハリスタンと変えたのは、その主要言語がトハリスタンの言葉であったからである。グレコ・バクトリアの美術的伝統はこれらの遊牧民の新しい要素と相互に影響しあって存続した。南タジキスタン・サフサノフル発見の金のバックル(作品214)は小品ではあるが、前1世紀から後1世紀に興ったこのギリシャと遊牧民の混合様式の傑作である。その主題は野生の猪狩でよく知られた遊牧民の意匠である。狩人の人類学上の類型やその衣装も遊牧民のものであり、その馬や野生の猪を狩る場面も遊牧民風に様式化している。しかし現在のカザフスタン、キルギスタンや南シベリアの領域に由来する遺物は、このバクトリアの小彫刻よりももっと様式化しているのであって、この狩人の三次元空間での複雑な動きが装飾された枠の中で写実的に表現されている点にギリシャの影響が見られる。
 後に1世紀後半から2世紀、3世紀前半までバクトリアはクシャン帝国の最も重要な部分の一つとなった。当時クシャン帝国はヒンドゥクシュ山脈の南東部分と現在のパキスタン・インドの大きな部分を占めていた。標準化された貨幣、幾何学的に整備された都市及び新たに掘られた灌漑のための長い水路は、2世紀頃の南タジキスタンにおける大クシャン帝国の時代を特徴付けている。クシャン王によるインド支配は、仏教とシヴァ信仰を中央アジアの属領に浸透させた。これは東イランの人々と仏教の初めての出合いではなかったが、アフガニスタン、ウズベキスタン、タジキスタンで発掘された最も古い仏教建築はクシャン時代のものである。3世紀には新興のササン朝ペルシャがイランを統一し、クシャン王国の西部分を征服して、そこをクシャンシャーと呼んだ。4世紀にそこを支配した「クシャンシャー人」はササン朝ペルシャの王族か太守であった。5世紀に北方の遊牧民族がクシャンシャーの歴史に重要な役割を演じたが、彼らは互いに抗争しササン朝ペルシャとも戦った。4世紀頃にはトハリスタンの仏教寺院は殆ど荒廃してしまった。おそらくササン朝ペルシャの反仏教政策によるものであろう。一方、ササン朝のクシャンシャーは個々の神々への古い信仰を排斥しなかった。彼らのコインにはクシャン帝国のコインに似た神々の像が見られる。しかしながらその図像は部分的に改変されており、ペルシャにおけるゾロアスター教の神々の地方版と考えられる。4世紀以降、中央アジアの芸術家はある種の歪曲はあるものの、しばしばササン朝ペルシャの王冠、王の衣や玉座を表現した。4〜5世紀における遊牧系の支配者の貨幣はササン朝ペルシャやクシャノ・ササンのコインに深く依拠している。
 5世紀後半、アフガニスタン北東部に住むエフタルが二度までもペルシャ軍をやぶり、ササン朝の王ペロツは484年戦死した。その後イランは560年代までその属領となった。すぐにエフタルはトハリスタン、インドの大きな地域、現在の甘粛を征服し、509年頃にはソグディアナを征服したのである。エフタルの時代はわりあい短く、565年に終焉した。それは北東から到来したトルキスタンのカガン、ササン朝のペルシャ人そしてインド王らの連合によって分割統治された。しかしながら美術史上ではこの短い期間は大変実り多いものがあり、インドの影響の新しい波がエフタル帝国の北部に達し、地方の画家や彫刻家に豊かな題材を与えたのである。クシャンの時代にギリシャ・インド系のガンダーラ美術がインドと中央アジアの文化世界をつなぐ役割を演じたとするならば、エフタルの下では純粋なインド・グプタ様式の題材と図像が中央アジアで盛行した。北タジキスタン由来の金のペンダント(作品215)は5〜6世紀装飾芸術の煌びやかな一例である。その片面はローマ時代末期のカメオを金の薄板でその一部を覆っている。もう片面はインドの題材で、植物が生けてある壺のそばにいる一人の人物を作り出している。
 これに続くトルキスタン時代(6世紀末〜7世紀前半)にソグディアナ、少し遅れてトハリスタンもトルキスタン可汗国の属州となった。この巨大な遊牧民の帝国はクリミアから満州までの広大な版図を統治した。事実、地方の公国と都市国家はほとんど独立していたが、トルキスタン(チュルク)と良い関係を保っており、ソグド商人は少なくとも1世紀にはシルクロードの隊商交易を支配していた。
 6〜8世紀にはソグディアナはシルクロードの西中央アジア地域の最も重要な国となった。ゼラフシャン川谷地域のペンジケントは典型的なソグディアナの都市として知られている。1947年以来、アレクサンダー・ジャクボフスキー、ミハイル・ディヤコノフ、アレクサンダー・ベレニツキー、ボリス・マルシャーク、バレンティナ・ラスポポヴァ他の四世代にわたる学者らによって、54年間でこの都市のおよそ半分が発掘された。その宮殿、神殿及び個人の住宅は壁画、木彫や粘土彫塑で装飾されていた。ペンジケントの裕福な私宅の応接間の壁画は複合した主題が描かれている。それには様々な地方神の信仰的場面、ソグドの多くの伝説上あるいは挿話の説明図やインドの「マハーバーラタ」「パンチャタントラ」、更にはギリシャのイソップの寓話が含まれている。ソグドの匠の主要な働きは図像によって物語することであり、絵画が彼らの主要な芸術言語だったのである。物語に加え、壁画は建物自体を装飾する目的があった。このために芸術家は通常明るい赤あるいは青といった単調な色合いをも背景とすることがあり、意識的にそうすることもあった。ソグド絵画の世界は二つの別々に強調されたもので成り立っていた。力動的に相互関係をもった人物とそれと全く相容れない背景とである。ペンジケントの美術はグレコ・ローマン、イラン、インドそして中国といった、シルクロード沿いのすべての主要な文化から取り入れた多くの特徴をみせている。ペンジケントの壁画に見られる多くの様々な儀式の場面は、図像の貧困なペルシャの正統派ゾロアスター教とそれほど厳密性のないこの宗教の地方版の違いを理解することの助けとなる。
 ソグディアナでは仏教徒は少数派であった。逆に6〜8世紀のトハリスタンには多くの仏教徒がいた。ワフシュ川谷のアジナ・テぺから7〜8世紀初頭の仏教僧院が、ボリス・リトヴィンスキー、タマラ・ゼイマルによって発掘された。そこにはトハリスタン人の半独立の領地があった。僧院からは断片的な壁画や粘土の塑像のほかに12メートルの長さの仏涅槃像が見つかった。それは現在、タジキスタンの首都ドゥシャンベにある国立博物館の最も魅力的な展示物となっている。アジナ・テぺの優雅な様式は、それと殆ど同時代で、最近野蛮にもタリバンによって破壊されたバーミヤンの壁画と彫刻に似ている。

 ヌマン・ネグマトフ率いる遠征隊によってウスルーシャナの豊かな美術と文化が発掘された。多くの考古学的遺跡の中で、シャーリスタンという村の近在で発掘された領主の宮殿が最も重要である。現在のこの場所の名前はカライ・カーカーァ(正確ではないが字訳すれば「Kalai-Kakhkakha」)という。その廊下と二つの応接間で壁画が見つかった。廊下のものは7〜8世紀のペンジケントの絵画と様式の上で大変似ている。その中にローマの「ロムルスとレムスの物語」を表した長いフリーズがある。「小ホール」の絵画様式は、ソグドのものではないが、その主題が神々の戦い、悪鬼や悪玉に対抗するものである点はペンジケントのものと大変似通っている。この壁画が今回の特別展に2点含まれている(作品212、213)。小ホールの画家は全くこのソグドの伝統を捨ててはいないが、その画風は中国の影響を受けており、筆法のよく効いた線がある種の自立した価値をもっている。様式が変わって何か全く新しいものとなったのではないが、ある伝統的なものを失っている。このホールの人物や馬の図像は、ペンジケントの一連の壁画に見られるすらりとした様や力強さがない。信頼できる正確な年代は確定できていないが、この「小ホール」の絵画は8〜9世紀のものとされてきた。この8世紀前半の時代特定は否定できない。ウスルーシャナの画家が中国美術に接することができたのは750年代以前が最も妥当で、この頃中央アジアと唐王朝の関係は中国の内戦によって中断され、751年には中国軍がアラブに敗退したからである。
 この6世紀から8世紀初期にかけての輝かしい時代は、そのすぐ後の8世紀、アラブによる西中央アジアの征服とイスラム化によって終焉を告げた。そしてタジキスタンの美術はイスラム世界全体と同様に、より装飾的になった。アラブカリフ時代の初期イスラム美術は、ビザンチンやイランの美術ばかりでなく、ソグディアナとトハリスタンの文化的美術的伝統から多くの影響を受けているのである。

註:
1 例えばカルガリー出土の大鍋

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