吉原風俗図巻 菱川師宣筆 図録解説
 江戸で唯一の官許の遊郭であった新吉原のありさまを15の画面で構成したもの。師宣は、長巻であっても、1紙あるいはそれよりも小さな単位で一つの図像を構成し、それをつなげて1巻とする手法を用いている。各図像間の連続性は、可能であれば考慮するが、それに腐心することはない。本画巻も、120cm弱の紙を15枚継いでいるが、原則として各画面は独立したものとなっている。師宣の画巻としては、画面の幅、1巻の長さとも最大のものである。
 15の画面に小題を付けるとすれば、日本堤から衣紋坂、大門から仲の町、角町の局見世と散茶見世、江戸町二丁目の散茶見世、新町(京町二丁目)の格子見世、京町一丁目の格子見世と局見世、揚屋町入口と茶屋、揚屋町の茶屋、揚屋入口と大寄せ(大宴会)、揚屋台所、散茶見世の勝手と遊興、揚屋の座敷、揚屋の大寄せ、引付部屋と床入、床入と上臈(上級遊女)の食事ということになろうか。各画面には当初から具わっていたと思われる書き入れがあり、それが画面の理解に決定的な役割を果たしている。
 新吉原のありさまを描いた師宣の作品には、延宝6年(1678)刊の絵本『吉原恋の道引』と、延宝(1673-1681)後期頃と推定される版画組物「よしはらの躰」がある。本画巻は、両者と密接な関係を有するが、特に後者とは親密で、「よしはらの躰」の肉筆版が本画巻、換言すれば、本画巻を版画組物にしたのが「よしはらの躰」ということができる。筆者は、2000年に千葉市美術館で開催された「菱川師宣」展を担当し、その時「よしはらの躰」の順序についての試案を述べたことがある。しかし、その試案は、本画巻の構成に引きずられ過ぎて、「よしはらの躰」が巻子装を前提に制作されたという点を軽視したように思う。巻子装としての連続性を考慮すると、「よしはらの躰」は、日本堤入口の木戸、日本堤、衣紋坂、大門口、散茶見世、格子見世、高島見世先、揚屋台所、座敷遊興、揚屋大寄せ、揚屋町入口、揚屋町茶屋前という順序であったというべきであろう。
 その試案が受け入れられないとしても、「揚屋町茶屋前」が最終図であることは動かないので、「よしはらの躰」は、揚屋の屋内を描いた後に揚屋町の路上図を入れて終わる構成となる。それが不自然ではということになり、その後は本画巻のように遊女屋・揚屋の屋内描写で終わるという構成に改めたのではないかと思われる。現存している師宣の江戸風俗図巻のすべてが屋内の図で終わっているのはそういった事情を想定すれば理解しやすいであろう。
 しかし、本画巻は、注文者の意向を反映してか、師宣の吉原風俗図巻としては、15図という長大なものになった。その結果、一、二の点で不自然な箇所が残ったのは止むをえないのかもしれない。その最大のものは、揚屋台所の後に、散茶見世の勝手と遊興を入れ、その次を揚屋の座敷としたことである。江戸町二丁目の散茶見世の後に散茶見世の勝手と遊興を入れることもできたはずであるが、おそらく、突然屋内の描写が入ることを嫌ったのであろう。床銭を払い、遊女が食事をしている図が最終図であるのも少々合点がいかない。15図の順序が当初の意図を反映しているのかどうかも検証されるべきなのかもしれない。こういったことを検討できるのも、全図にわたって書き入れがあるからであり、本画巻が当時の吉原風俗史料としても他に代えがたいものであることは言を俟たない。
 本画巻が制作されたのは、年記入りの師宣作品及び版本との比較から延宝末頃と思われる。師宣の肉筆の吉原風俗図巻としては唯一の作品であり、吉原の描写のある江戸風俗図巻で現存するものは、すべて本画巻よりも後に制作されたものである。また、既に多くの研究者によって指摘されているように、最終図に入れられている落款は、後の時代に入れられたものである。「北楼及び演劇図巻」群の作品を除けば、天和(1681?1684)以前に制作された師宣の作品のほとんどが無款であるのは既に筆者が指摘したとおりである。蛇足であろうが、『吉原恋の道引』と「よしはらの躰」にも師宣の署名がないことを申し添えておきたい。 (浅野秀剛)

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