江戸の艶事と食文化―菱川師宣筆「吉原風俗図巻」を中心に
エリック・C・ラス 日本語訳:舘野まりみ
台所のドラマ
 本図巻における師宣の興味は、艶事の描写よりも料理の様子を生き生きと描くことにあったようだ。着衣のまま布団に入り歓楽に飽きた様子の男女(図8)と、台所で鮮魚を洗い、箸で押さえ、3枚におろすなど活発に働く料理人たち(図4)を比べてみよう。生気あふれる料理の有り様は、寝室の2人よりずっと鑑賞者をわくわくさせ、我々の生々しい感覚や欲求を呼び覚ます。
 台所(図4)は、近世日本の都会の住居にある典型的な構造である。食材の下準備をする場所は、入口付近にある。そこは、ブロックや土や石でできた竈が設置されるので、防火のために土間になっている。本図の台所の入口には、若い男が立ち、振りかえって、今しがた自ら配達した大根と牛蒡に目をやる。食材が到着すると、次の台所内の作業の流れにつながり、一連の時の経過を彷彿させる。籠に入って到着した鯛は、洗い桶に移して洗われ、次に鮑のそばにある竹籠に他の魚とともに並べられ、台所の奥の料理人たちに渡る。鯛は、美味なだけでなく、日本人にとって祝福の魚である。鯛は「めでたい」を連想させる上に、鯛の赤い色も縁起の良い色なので、結婚などの特別な行事には不可欠なものであった。蛸と伊勢海老も、今夜の宴の献立に入るのであろう。これら三つの食材は、特に鯛に関しては、高度な技術をもったプロの料理人の腕で料理されなくてはならないものだ。魚を獲ってきた当の漁師でさえ、上手に3枚におろすなどの技術を要する調理法は知らなかったであろう。というのは、普段漁師が口にできるのは、鰊や鰯といった安い魚であったからだ註19。本図中の料理人たちは、彼らのトレードマークである特別な道具とともに描かれている。「まな板」の前に座り、長い金属製の箸と、武士が携える刀ほどもある丈の長い包丁を器用に使う。
 台所の奥を見ると、料理人が調理の次の段階に取り組んでいる。左端には、鰹節を削る助手の男がいる。鰹節とは、鰹を燻し、カビを繰り返し植え付け発酵させ、乾燥させることによって、生の魚を固いブロック状に変質させた食材である。「鰹箱」―鰹節を薄く削るためのはめ込みの刃と削った薄片を溜め置く箱状の道具―が発明される以前は、汁物や煮物を調理する際に必要な出汁を作るために、本図にあるように人の手で鰹節を削らなくてはならなかった。薄く削られた鰹節を布の袋に入れ、熱湯に浸し、風味と香りが出たら、袋ごと取り出す。鰹節削りのそばでは、格上の料理人が鯉らしき魚のヒレを落としている。吉原の近くの隅田川で獲れた鯉かもしれない。巻頭第1図の吉原大門の向こうに位置する浅草は、浅井了意(1612-1691)の著書『江戸名所記』(1622年〈元和8〉刊)によると、美味しい“紫鯉”で有名だったようだ註20。鯉は、中世の武士の宴席でしばしば食された。日本初の出版料理本である『料理物語』(1643年〈寛永20〉刊)は、鯉の調理法に中世の感性を伝える。鯉を生で食する「なます」(鯉と野菜を酢で合わせ生食する料理)や、汁物(温汁または冷汁)、焼き物などである註21。鯉のほかに、鯛の刺身は、特別な折に江戸で大人気の食べ物であったことが、喜田川季荘(守貞)(1810年生)著『守貞謾稿』―江戸の日々の暮らしや風俗を全30巻にわたり解説する類書―に記される。江戸では細い糸状に切った大根を刺身に添えるのが人気である、と同本には記されているが、本図の大根も刺身のつまとして使われるのかもしれない註22。あるいは、鯉は鮨にされるのかもしれない。先述したように鮨は魚を保存する方法であって、ここでいう「鮨」は生の鯉のそれではない。本図巻と同時期に出版された『合類日用料理抄』(1689年〈元禄2〉刊)に記される鯉の鮨は、鯉を塩水に2日間浸し、玄米と酒粕を交ぜたものに漬けこんで保存するとある註23。鯉をさばく料理人の手前に置かれた皿に並べられている小ぶりの魚は、おそらく鮎であろう。
 もう一つのまな板のそばには助手の女がおり、料理人が魚をおろすのを待っているようだ。その魚の身の色は赤みがかっているので鯉と思われる。川魚である鯉は、匂いを取り味をよくするために洗う必要があり、助手はそのために準備しているのだろう。鯉は「恋」と同音である。師宣は台所に2尾の鯉を描き、視覚的な洒落を見せている。料理人たちが鯉を料理するのは、恋の成就のために妓楼内のいたるところでなされている様々なお膳立ての一つなのである。まな板の上に残されている鯉の頭は、皿に鯉の刺身を盛り付ける際に、中央に置いて飾りとして使われるのではないだろうか。余った魚の小片は、鯉をさばく料理人の後にいる者たちによって、はんぺんに姿を変えるのだろう。はんぺんの材料は、魚と山芋である。洗い桶の向かい側に置かれた皿の中にある茶色の皮の塊茎は、山芋ではないだろうか。『合類日用料理抄』には、はんぺんの作り方が簡潔に解説されており、豆腐、山芋、魚を一緒に交ぜ、味付けに塩を入れるとある。食材をすりこぎで潰すという重要な過程を、同本は省略している。潰した後、型に入れ茹でるか蒸すのだが、その段階は本図巻には描かれていない。調理過程を省略するのは、近世の料理本にはよくあることであった。その手の本は、既に料理のことをよく知っているプロの料理人や、宴席の立案を実際に、または空想で行ったことのある食道楽に向けて書かれたからである註24。料理人がどのように食材を調理するかを空想することは、本図巻鑑賞の醍醐味の一つである。現代のテレビ番組で、それに似た楽しみを提供したのは「料理の鉄人」という人気料理コンテスト番組であった。視聴者は、シェフたちが突然出された食材を巧みに調理する方法に驚嘆したものだ。
 宴席は大抵の場合、酒を飲むことから始まった。招待する側とされる側であれ、客とその相方の遊女であれ、宴の参加者は、杯を交わすことによって縁をつなぐ。食事の前の空き腹に飲む酒は、量が少なくてもよく効く。その効果を利用した飲み方は、1680年代には、うってつけの方法だったのかもしれない。当時の飢饉の対応策として、酒の醸造量を削減する減醸令が幕府から発令され、それが酒の値段を引き上げたであろうと推測されるからだ註25。酒が続いたあとには、簡単な料理が運ばれてくる。『料理物語』では、酒の肴には蛸を以って好しとする。本図にも蛸が描かれているのを見ると、料理人たちもそのつもりで準備しているのではないか註26。本図巻に散りばめられた色々な視覚的ヒントと日本の食習慣を考えると、食べ物が最終的にどのように給仕されるのか想像できそうである。高位の大名でさえ、食事を倹約していたのが現実であるから、本図巻の注文主は絵を見れば、図中の客たちがどれほど手厚いもてなしを受けていることかわかったはずである註27。図録p16-17より抜粋
吉原風俗図巻 台所

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