神仏を荘厳する「かざり」の世界 辻 惟雄 図録解説
「かざり」は、現代でもよく使われる日本語である。私がこれを、日本美術の特色を言いあてるための、一種のキーワードとして用いることを試みたのは、一九八八年、日本橋三越で催された「日本の美『かざりの世界』展」においてであった。この時の意外な成功に気をよくして、以来今日まで「かざり」あるいは「KAZARI」を主題とする展覧会を日本、アメリカ、イギリスで何回も繰り返し行ってきた。ニューヨークの「KAZARI展」の時はとりわけ反響が大きく、スーパーブ(すごい)≠ニいう感嘆の声が会場のあちこちから聞こえた。
今回の展示は、老齢の私が、十年余勤めさせていただいたMIHO MUSEUMの館長職を辞するに当たって、学芸員のみなさんが特別に企画された、いわば最後の「かざり展」である。今回は、これまでとやや違って、日本人の神仏への信仰と「かざり」との関連が主題となっている。キモノとか装身具といった、これまでのかざり展の定番をあえて省いた点、少々地味な展示になるかもしれないが、それに代わる、意外な魅力と迫力が生まれるのではないか、と私は期待している。
「かざり」は、単調な日常の「け」の世界に住む人々が、「はれ」と呼ばれるある特定な日と場所で、日常から非日常へと気分を転換し、再生のエネルギーを得る、そのための装置であり、道具立てである。とりわけ、「祭り」の場は「かざり」と不可分な関係にあり、「かざり」が宗教性に深く根差していることがこれからわかる。ただ人の目を楽しませるだけでなく、神の目を楽しませる。そこで人は神から授かった生命を寿ぐ、という祭りにおける人と神との深いつながりは、現在に至るまで変わることがない。明治政府による神仏分離の処遇を受けるまでは、神と近しい関係にあった。仏教もまた金・銀・宝石で「かざる」世界である。仏教の法会の場をかざる僧の法衣や、金銅の光輝く法具のさまざまは、荘厳(しょうごん)(サンスクリット語では「alam・kara」といって、仏国土や仏の説法の場を美しく飾ることを意味する)の世界にほかならない。日本の仏教美術は、金、銀の光まぶしい荘厳具によって、現世の空間に出現させる働きをする。今では、時間の風化作用によってモノクロームの素地に還った仏像も、もとは多くが金色まばゆいものであった。金色はまた、豊かな多色との対比・融和によって「大和絵」となる。そこでは絵画とか工芸とかいった区別は存在しない。
思いがけなくも、今回の展示には伊藤若冲のいわゆる「モザイク屏風」も出品されることになった。静岡県立美術館所蔵の六曲一双屏風(作品98)と、米国・エツコ&ジョー・プライス夫妻所蔵の六曲一双屏風(作品97)がともに出品される。これらは一見「神仏のかざり」とつながりのない世俗の絵画とみなされがちだが、有名な「動植綵絵」三十幅が、寺の「荘厳具」として長らく使用されることを願って相国寺に奉納されたものであることを若冲自筆の「寄進状」によって思い起こせば、これらの屏風にもまた、謡曲にも盛んに謡われた、「草木国土悉皆成仏」(草木や国土のように心を持たないものも、人や動物のように心を持ったものと同じように、仏になる資格を備えている)という天台本覚思想が反映していると考えられる。
現在所在は不明だが、八曲屏風の中央やや右よりに釈迦の坐像を描き、左右に十六羅漢を描いたモザイクの腰屏風(腰の丈ほどの屏風)が戦前に大阪での展覧会に出品されており、写真で見るとまさしく若冲筆だと知られる。「モザイク画」の背後にある、若冲の深い仏教への帰依がここからもうかがえる。ただし、写真を拡大して描かれた羅漢たちの顔を見ると、村上隆描くところの一〇〇メートルの大画面に描かれた羅漢たちも顔負けの、ユーモアとナンセンスが充満しているのに驚かされる。祈りつつ笑う─若冲の宗教観がここにみられるのだ(注:作品図版は静岡県立美術館発行の展覧会図録『異彩の江戸美術・仮想の楽園』〈一九九七年刊〉に載っている)。
プライス本モザイク屏風の動物を描いた右隻の中央、向かって左のヒョウは、下にいるネズミを「食べてしまうぞ」とおどかしている。ネズミはおびえている。仏国土にいる動物にしては不届きだと思う人もいるかもしれないが、これも若冲の茶目っけのなせる業だと私は思う。
鳥を描いたプライス本左隻の左半隻を見よう。鳳凰の尾羽のうちの二本は先にオレンジ色をした丸い模様をつけていて、それらは球状に隈取られている。それは、上にたわわに実るオレンジらしき果実と、わざとまぎらわしいように描いたようだ。静岡県美本にも同様な鳳凰が描かれているが、尾羽は果樹とはっきり区別れている。
プライス本のオレンジの樹の後ろには、何やら得体のしれない大きな球体が七つ八つのぞいている。果樹にしては大きすぎて、なにやら未知の飛行物体あるいはナシのお化けのようだ。ある研究者は、これと同形の緑色の円球が、果樹の葉の塊を表すものとして静岡県美本に描いてあるのに注目し、これがプライス本のナシのお化けの原形だという。とするとプライス本のナシは静岡県美本の写し崩れ、ということになる。
すなわち、プライス本の果樹は、静岡県美本の果樹を誤って写したことの証明になるのだ。
たしかに、両者の制作時期の前後関係はこれでよくわかる。だが写し崩れというにしては、プライス本の作者の態度は、あまりにも大胆で意表をついている。これは「写し崩れ」ではなく、「写し変え」もしくは「写し化け」とでもいうべきものではないか。プライス本のユーモア精神は、こんなところにも発揮されているのだ。祈りつつ笑う、あるいは笑いつつ祈る─これこそが若冲の信仰の実態である。
「静岡県美本」と、「プライス本」─この二つの彩色モザイク屏風は、現在これだけしか知られておらず、両者の対面は一九九七年の秋、静岡県立美術館で行われた「異彩の江戸美術・仮想の楽園」展以来のことである。
ただし、展示期間は限られる。静岡県美本は、今回の「かざり」展の初日から約二週間、プライス本は初日から一カ月半足らずの間である。それゆえ、両者の顔合わせは、二週間足らずの間となる。どうかお見逃しなきよう。プライス本だけはその後、四月二十二日から、上野の東京都美術館で開催される「伊藤若冲展」で展示される。プライス本が撤去されたあと、代わりに展示されるのは、京都・清浄華院蔵の「大涅槃図」(作品96)である。釈迦の臨終の場面を大画面に描き、毎年の涅槃会の折、寺の本堂に掛ける習わしは、平安時代からあった。高野山金剛峯寺の「涅槃図」は平安後期の名作である。戦国から桃山時代にかけては、狩野松栄の「大涅槃図」(大徳寺蔵)、長谷川等伯の「大涅槃図」(本法寺蔵)など、大作が知られている。
涅槃図の制作は、江戸時代に入っても、寺院の要請に応じて盛んに行われた。京都・清浄華院の「大涅槃図」はそのひとつで、正徳三年(一七一三)、海北友賢の筆である。海北友賢は、桃山時代、長谷川等伯と並ぶ巨匠として活躍した海北友松の子友雪の門人で、元禄十五年(一七〇二)、祇園八坂神社に新田四郎の絵額を奉納している。当時の民間絵師として知られた存在であったと思われる。
清浄華院の涅槃図は、沙羅双樹のもと、画面中央の壇に横たわって遷化する釈迦と、その周りを囲んで嘆き悲しむ菩薩や明王、僧や大衆を描く。この図様は、平安時代以来の涅槃図の伝統をひくものだが、金剛峯寺本において、釈迦を囲むのが菩薩と人だけであったのが、桃山時代になると、松栄筆の「大涅槃図」のように、前景に六牙の白象、馬、牛、虎、豹、唐獅子をはじめ、鶴、鷲たちの鳥、さらには蛙、亀、蝶々なども描き込まれるようになる。釈迦の死を悼む鳥獣もまた、仏性を備えている、と説く天台本覚思想の反映がそこに読み取れる。海北友賢の涅槃図になると、この特色はさらに強まる。動物たちの数と種類が圧倒的に増えるのである、画面手前右側には、それまで描かれなかった海面が現れ、さまざまな魚類がそこに描かれている。鯨の姿もそこに見える。鯨と反対側の白象との対比は、この絵が制作された八十二年後に生まれた伊藤若冲の「象と鯨図屏風」(MIHO MUSEUM蔵、154頁参照)を思い起こさせる。
地面にはムカデ、ゲジゲジ、バッタなど、虫のさまざまが、昆虫図鑑さながらに多様である。釈迦の上方、沙羅双樹(その葉が半分枯れ色になっているのは、釈迦の臨終の暗示か)やその後ろの池のあたりにも、大小の鳥や魚、トンボやコウモリまでが群がり、それらの種類は画面全体で百十にも達する。画面を埋め尽くすそれらの生き物たちの姿かたちのさまざまは、そのまま、仏を荘厳する「かざり」の世界である。
「かざり」の世界よ、永遠なれ。
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