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![]() 5.峨嵋露頂図巻 巻子装 重要文化財 TOREKコレクション蔵 |
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![]() ![]() 俳人蕪村の活躍した十八世紀中頃から、「芭蕉へ帰れ」を合言葉に、芭蕉の精神の復興をしようとする気運が興り、やがておおきな文学運動となり俳壇(はいだん)全体へとひろがっていきました。 ![]() 蕪村もまた、単に時代の風潮に乗るのではなく、芭蕉への強い憧れをもっていました。明和7年3月に蕪村は師 ・ 宋阿(そうあ)の夜半亭を継(つ)いで、京都を中心に活躍します。その後名古屋の暁台(きょうたい)など俳句の作風のちがう多くの俳人たちとも親しく交流したり、芭蕉の紀行文『奥の細道』に挿し絵を入れた「奥の細道図」などを制作するなど、芭蕉を讃(たた)ええることに力を尽くしました。 ![]() |
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![]() ![]() ![]() 6.太祇馬提灯図 軸装 早稲田大学會津八一記念博物館 富岡コレクション ![]() 裏がえしになった傘を持っているのが太祇(たいぎ)で、右手に提灯を持ち、傘をすぼめているのが蕪村です。親友・太祇と蕪村の交遊と、ふたりの人となりを伝える作品です。 ![]() |
![]() ![]() 7.あて名不明書簡 軸装 ![]() 以前から内容は知られていたが、展覧会には初出品。現存する蕪村の書簡のうちもっとも古いものです。文中に打出の小槌の挿絵を描き、内容から当時蕪村のえがく大黒天図は引くてあまたであったことがわかります。
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![]() ![]() 中国の漢詩と日本の古典どちらにも精通していた蕪村は、友人で文学者である上田秋成から、「かな書きの詩人(漢詩人)」と称されました。自由自在な想像力により、中国と日本の間を自由自在に行き来し、俳諧で漢詩の精神の中に日本的なモチーフを採り入れた句作を得意としました。また、絵画では中国と日本それぞれの伝統的な画題を描く一方で、両方の美意識を融合させたような作品も残しました。このほか、俳諧画賛(はいかいがさん)((俳画)とよばれる作品では、単に絵が俳句を理解するための説明ではなく、絵と句が互いに響きあうよう様々な趣向を凝らしています。 ![]() |
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![]() 8.「涼しさに」自画賛 軸装 ![]()
うさぎが青い半被(はっぴ)を着て杵をもっています。長い前文では、北関東を放浪していた時の思い出が記されています。 ![]() |
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9.放下鉾下水引(部分) 安永八年(1779) 放下鉾保存会 ![]() 展覧会初公開。蕪村のえがいた下絵をもとに織られた鉾を飾る下水引。十年ほどまえまでは、実際に山鉾巡行に使われていました。 ![]() |