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平成24年 秋季特別展
会期9月1日(土)〜12月9日(日)
土偶・コスモス  土偶─この不思議な造形はどこから来るのでしょう。顔なし、三本指、バンザイポーズ、超ナイスバディ、奇妙な表情、そして赤い顔料で塗られた痕跡……土偶とは、いったい何者でしょうか?
 現代の私たちが縄文時代にタイムトラベルしたら、おそらく彼らの高度な技術と根気の良さに舌を巻くでしょう。縄文土器ひとつ取っても、そこらの土を捏ねて焼いただけではありません。まず粘土を発見し、砂などを混ぜて寝かせ、あの驚くべき造形を施し、乾燥させた後に焼くのです。それも窯ではなく野焼きですから、大型になればなるほど全体の温度を均一に保つために、細やかな工夫をしていました。それが大量に出土するとは、尋常ではありません。
 土器だけではなく、彼らは漆器を作っていました。それも赤黒の漆を駆使した徳利や盃、耳飾りや腕輪に櫛、朱漆を塗った糸に飾り玉を通した美しい装身具など、縄文上流階級の皆さんは、おしゃれだったようです。
 新潟県の糸魚川流域で採れるヒスイは、全国各地に運ばれています。大珠と呼ばれる大きなヒスイは滑らかに表面を磨かれ、穴を開けて紐などを通せるようにして、北海道から沖縄まで行き渡っていました。ヒスイに穴を開ける硬くて細い石が、その辺りに転がっているはずもありません。けれども縄文人は、石英などを含んだ砂を盛り、穴の箇所で細い竹などを廻しては、長時間をかけて貫通させたのです。矢尻に使える黒曜石と違って、ヒスイの大珠を持っていても腹の足しにはなりません。一体どうして縄文人は苦労してヒスイを磨き、穴まで開けたのでしょう。
 彼らは巨大モニュメントを創りました。秋田県の大湯では、7キロ離れた河原から、一人では持てないような石を5000個以上も運び込んで、隣り合う二つのストーンサークルを形成しています。栃木県寺野東の盛土遺構では、直径165メートル、幅25メートル、内側の高さ5メートルの環状土塁を作っているのですが、これは400年以上も営々と作り続けた結果だと言われています。青森県の三内丸山遺跡では、直径80cm以上の巨木を3本づつ平行に並べたモニュメントが発見されました。柱1本はおそらく10〜15トンもの重さであったと想像されます。2列の木柱列の間から、夏至の日に太陽が昇り、冬至の日には夕日が落ちるようになっています。縄文の遺構には夏至や冬至・春分秋分の時期に、その地方の主たる山から太陽が昇ったり落ちたりする例が、非常に多くみられます。いったいどんな世界観を持っていたのでしょう。
 縄文の祭で重要な役目を果たしたのが、土偶でした。土偶とは何者?
……それは見てのお楽しみです。
 「国宝・縄文のビーナス」や「滋賀県で発見された最古の土偶」、その他主要な作品が、この秋全国各地からMIHO MUSEUMに集合します。どうぞお見逃しなく。



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