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2001.9.1 (土)〜12.16 (日) |
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洛陽の南13km 、伊水の両岸、南北1kmにわたる山肌に開かれた龍門石窟には、大小2,345の石窟と、およそ11万体にものぼる仏像が確認されています。 この展覧会は、日中国交正常化30周年と龍門石窟が2000年12月にユネスコの世界文化遺産に登録されたのを記念して行われるもので、中国からの出品作品を中心に、日本国内およびアメリカ合衆国からの関連作品も加え約50点で構成されます。龍門石窟の特別なご好意で初めて国外に出た雷鼓台南洞の宝冠如来坐像をはじめ、日本初公開の奉先寺遺跡出土作品を含む展示品は、龍門石窟芸術の荘重な世界に皆様を誘ってくれるでしょう。 |
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龍門石窟の造営は北魏時代にはじまり東魏、西魏、北斉、隋、唐、北宋まで、およそ400年間続きますが、なんといってもその二大ピークは北魏と唐の時代でした。龍門石窟研究所によれば、2,345の石窟のうち、およそ3割以上が北魏時代に造られ、残る6
割を超える石窟のほとんどが唐時代のものと報告されています。 |
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![]() 龍門石窟の西山北部に賓陽洞があります。賓陽洞は三洞からなり、北魏時代に中洞が完成し、南北の二洞は工事が中断され、ようやく唐時代になって完成しました。 |
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これらは宣武帝が景明の初め(500年頃)に造営することになった石窟二箇所にはじまります。初めは宣武帝の両親・孝文帝と文昭皇太后のための二窟が計画されました。しかし難工事のため、おもうように工程がはかどらず、正始二年(505)に規模を縮小し、永年中(508-512)には両親のための二窟に宣武帝自身のための石窟を加えて三ヶ所として造営が進められました。この制作には景明元年から正光4年(523)6月までに802,366人の労働力を用いたことが伝えられています。 | ![]() |
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1 賓陽中洞 菩薩頭部
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賓陽中洞からもたらされた菩薩の頭部。他の龍門石窟の北魏刻に見られる繊細で、幽玄な気配とは異なる活気と明るい印象が感じられます。 | ||
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2 洛陽・永寧寺出土品僧侶頭部
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太和18年(494)28 歳の孝文皇帝は、北魏の都を百年続いた平城(大同)から洛陽へと移しました。この時、平城に甍をほこった永寧寺の七重塔の洛陽移転も計画され、ようやく熙平2年(516)から神亀2年(519)には以前にもいや増す九重塔が造られました。この老若二人の僧侶の頭部もその中にあったもので、その表情は北魏彫刻の精彩を生き生きと伝えてくれます。 |