![]() ![]() 染分け小花文帯地 1960年頃 津村小庵文帯地 1967年 |
芹沢先生の文様の明るさは、自然の風物が持っている、やさしい風と日光と、すくすく育つ草木や虫たちの明るさだと思う。芹沢先生がお使いになる色は、海山川が最高にご機嫌な笑顔を私たちに向けてくれたときの、その色に似ている気がする。![]() 「花は紅、柳は緑」この単純な真実が、赤絵の魅力の原点だと思う。芹沢先生の文様があれほどバラエティーに富みながら、どれも胸の奥まで響いて来るのは、この真実にしっかりと軸足をおかれていたせいではなかろうか。 「いつもの事ながら 赤絵を想ふと 模様が出てくる」 ![]() 「沖縄から、九州、大阪、東京へと、道すがら地べたに筵を敷いて、赤絵を売って歩こうか。」 ![]() 芹沢先生は巡礼の旅に出たいと、よく話しておられたという。その旅に着て行く衣装も決まっていたのだとか。 |
![]() |
![]() ![]() 人の字 1965年 ![]() |
![]() ![]() 八十七翁
1982年 洲浜形四季文四曲屏風 1970年 |
|||||||||||||||
「八十七翁」という作品には、藍染の着物に笈を背負って杖を突いた先生が、家族やお弟子や猫やらを引き連れ、幟を立てて行脚する姿が描かれている。 ![]() 「八十七翁 家を出づ 十大弟子負って 胸突八丁」 ![]() 翁の透明なまなざしには、埃っぽい街道筋のそこここに、小さな草花や人々の人情が、赤絵の文様となって浮かんでいたのではなかろうか。 |
||||||||||||||||
|
||||||||||||||||
|