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MIHO MUSEUM 活動報告
古代バクトリア遺宝のふるさとを求めて
古代バクトリア周辺地図

古代バクトリアの美しいコイン

金の奉納板、左が大英博物館のオクサス遺宝、右がMIHO MUSEUMのバクトリア遺宝のもの

タフティサンギン遺跡遠景、大河アムダリアのほとりに位置する。
   MIHO MUSEUM の開館5周年に公開された「バクトリア遺宝」。公開にあたり、その文化的出自など、様々な議論が起こりました。現在、この遺宝は、アムダリア(オクサス川)流域の遺跡、タフティサンギンを発掘したI. ピチキアン氏により、その特徴から大英博物館の「オクサス遺宝」に並ぶものとして位置づけられ、この考え方を軸にMIHO MUSEUM も積極的にバクトリア遺宝の調査を進めています。

   バクトリアはアフガニスタン北部とタジキスタン南部のアムダリア流域で、古くはアケメネス朝ペルシャの属州の1つとして、ソグディアナやガンダーラなどと共に歴史に名を残し、紀元前4世紀のアレクサンダー大王の東方大遠征の後には、ヘレニズム世界の最も東に位置するギリシャ人による支配の拠点であったことが文献から明らかとなっています。しかし、特にヘレニズム期バクトリアの文化に関する情報は少なく、芸術については最近までコイン資料しかなかったのです。そのコインは、美しい肖像にギリシャ文字で歴代の王の名が刻まれ、そこで栄えた文化がヘレニズムの特徴を持っていたことを証明するものでした。ところが、この美しいコインに見合う文化と芸術の証拠、遺跡が見つからなかったのです。ギリシャ・ローマ的表現を持つ、かのガンダーラ美術の源流としてヘレニズム期バクトリア美術を考える研究者も多く、中央アジアでのギリシャ人都市遺跡の発見には大きな期待が寄せられたのでした。

   この世紀の発見は意外なところからもたらされました。1961年、当時のアフガニスタン国王ザヒル・シャーが、旧ソ連(現タジキスタン)との国境地帯で狩猟を楽しんでいるときに偶然村人から石灰岩製のギリシャ的な彫刻持つ柱頭を見せられたのです。この発見がフランス隊に伝えられ、1965年から1978年まで正式な発掘が行われました。これがアイハヌム遺跡です。この遺跡はギリシャ的な都市計画に従って建物を配置し、柱以外が中央アジアの基本的な材料である日干しレンガで作られている他はギリシャ人都市の特徴をはっきりと備えていたのです。

   一方、アムダリアの北側(現タジキスタン側)でも、1970年代、タジキスタン南部の古代の要塞跡タフティサンギンにおいて、ヘレニズム期バクトリア時代のゾロアスター教の神殿跡が発見されました。付近は大英博物館のオクサス遺宝が発見されたと伝えられる地域にあたり、オクサス遺宝がゾロアスター教神殿の献納物と考えられていることに符合したのです。さらにそこからは、オクサス遺宝やバクトリア遺宝に類する駱駝を引く男性を表した金板も発見されました。

   大英博物館の「オクサス遺宝」とMIHO MUSEUM の「バクトリア遺宝」。この2つの特徴の似た、そして他に類例のない一連の遺宝にどんな関係があるのか。そして、これらの遺宝とタフティサンギン神殿の関連は。今後、両遺宝の徹底的な調査を行い、タフティサンギン発掘への協力をベースにアムダリア流域の考古調査を進め、古代バクトリア世界を総合的に理解することで、バクトリア遺宝の位置づけをして行きたいとMIHO MUSEUM は考えています。



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