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  もうひとつ、今度はぼろぼろのお経です。上のほうは緑色に染まり、ところどころ紙が傷んでなくなっています。それにしてもへたくそな文字。一行目は、ええと・・・法蓮華経序 第一、ということは最初の字は“妙”ですか。のっけからこれでは先が思いやられますね。この文字で、よくぞ法華経8巻ものお経を書き写されましたね。そう声をかけたくなるほど、お世辞にも上手とはいえません。ただ、本当に一生懸命お書きになったのでしょう。こんなに画数の多いむずかしい漢字を、何十メートルも書き連ねたのですから、それはもう大変な努力です。まして筆で字を書くのに慣れていない人ならば・・・。

  お経は長い間土に埋まっていました。銅の経筒から溶け出したさびが、まるで装飾のようにお経を染めています。
  「あーあ、お釈迦様の教えを、直接聞いてみたかったなあ。」そんなことをつぶやきながら書いたのでしょうか。
  法華経にはお釈迦様が霊鷲山(りょうじゅせん)という山の上で、人々に説法なさる情景がしょっちゅう出てきます。書きながら思ったかもしれません。「次は、弥勒様か。その時は私も生まれ変わって、お会いできるかなあ。」
  彼の目の中に、未来の情景が浮かびます。美しさと賢さに満ち溢れた弥勒如来が、一生懸命書いたこのお経を手に取られます。「これはあなたが書いたのですか。」にっこり笑って振り返る如来のまなざしに、震えながら「はい、そうです。」と答える彼。「それではこちらにおいでなさい。」龍華樹という美しい木の下には、すでに何万という聴衆が集まって、弥勒如来の説法が始まるのを待っていました。どの人も美しい人ばかり。これから悟りを開く人たち。そして彼自身も聴衆に交じって、弥勒の説法が始まるのを待つのでした。
  「今日も、もうちょっと書いておこう。」元気が出た彼は、硯の上で、再び墨をすり始めました。一文字一文字、下手でも丁寧に。
  数百年の時が、彼の思いに応えたのでしょうか?お経は見事に緑青で染められ、人々の前に、その信仰を伝えることになりました。

  仏たちの物語、どうぞお楽しみ下さい。

妙法蓮華経 巻第一(部分)
妙法蓮華経 巻第一(部分) 平安時代12世紀 MIHO MUSEUM (全期間展示)



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